「唯一将来性が輝いて見えたのがコンピュータの世界だった」ファンコミ創業者 柳澤安慶【前編】

「唯一将来性が輝いて見えたのがコンピュータの世界だった」ファンコミ創業者 柳澤安慶【前編】

ヤナティさんのファンコミ創業前夜の話です。

2021/9/29

※この記事は以前『UPSTORY』というメディアで2017年10月に公開されていたものです。『UPSTORY』終了に伴い、こちらに転載しました。 ------

先日設立丸18年を迎え、19年目に突入したファンコミュニケーションズ(ファンコミ)。そのファンコミを創業し、代表として会社の成長を先導する柳澤安慶社長(ヤナティ)に学生時代からファンコミ創業前、そして現在に至るまで、たっぷりとお話を伺ってきました。メディアに露出することの少ないヤナティさんの貴重なお話満載です!

何もしてない、プラプラしてる自分にコンプレックス

大柴:いつもお世話になっています。今日はざっくばらんにいろいろ聞いちゃいます! 柳沢:はいはい、よろしく。最近、これまでのことをどこかに残しておこうかなって思うようになってきて、大柴さんにぜひ書いてもらいたいなって。 ありがとうございます。その話を伺って、この新しいメディアの一発目はヤナティさんでいこうと考えてましたが、ようやく準備ができてきたので取材させてもらうことにしました。よろしくお願いします!ファンコミュニケーションズ創業が1999年10月で、ちょうど19年目に突入したわけですが、創業の時ってヤナティさんおいくつだったんですか? 35歳になるちょっと前かな。2人目の子供が2歳になる前で、一人目の子供もまだ小さかったんだよ。 最近は大学生起業家も多いですが、ご家庭があった中での起業というのはそれなりに覚悟がいったんじゃないかと。ではまずはファンコミ創業前までの話から伺っていきますね。あまり語られることが無い時代だと思いますが。 そうだね。 地元は長野県ですね。いつまで長野にいらしたんですか? 高校生まで長野。高校時代は麻雀ばかりやってて、青春を台無しにしたね(笑)。 部活なんかは入ってなかったんですか? 最初にサッカー部にちょっと入ってたんだけど、すぐ練習行かなくなった(笑)。それで麻雀。麻雀はそれなりに上手かったんだよ。やっぱり場数が大切だね。数やらないと上手くならない。麻雀は場の流れというか空気を読まないといけない。そういうのが面白いよね。 起業家で麻雀と言えばサイバーエージェントの藤田さんが有名ですね。 そうだね。藤田さん強いらしいね。いつか藤田さんと麻雀やってみたいなぁ。 大学から東京ですか? 浪人の時から。いやー、高校時代は麻雀ばかりやってて勉強をしなくて、浪人しちゃったんだよ。それで東京の予備校に通うことにしたんだ。田舎は何も無くて、とにかく東京に出たかったんだよ。それで東京に出てきて、新大久保の四畳半トイレ共同の部屋に住んだんだよ。ラブホテル街の中のアパート。 いきなり凄いとこに住みましたね(笑)。じゃあ上京してきて勉強に励んだんですかね? いや、それがしなくてさ(笑)。やっぱり麻雀ばかりやってたよ、予備校の奴らと。でもさ、やっぱり仕送りもらってるわけだから、どこかには受からなくちゃいけないなと思って、冬になる手前から勉強したわけ。 だいぶ直前ですね(笑)。そして大学合格。 昔から追い詰められないと行動しないダメな性格なんだよ(笑)。それで第一志望には落ちちゃって、第二志望の明治と成城かなんかに受かったんだけど、成城にしたんだ。下北沢に住みたかったんだよね。それに成城ってちょっとマイノリティというか、小さいし、個性的な感じがしたんだ。 それで成城大学にしたんですね。下北沢に住んだんですか? 住んだよ。また風呂無し共同トイレのアパート(笑)。近くに銭湯あったのが良かったね。 大学生活はどうだったんですか? やっぱり最初は麻雀したよね。でも場数が違うのよ。やっぱり青春を棒に振ってまで麻雀してたから、強くてさ、僕。全然相手にならないわけ。それで物足りないなぁという気持ちになった。実力差があると面白くないんだよね。それでバイトをやったりプラプラしたり。あんまり学校には行かなかったなぁ。 どんなバイトしてたんですか? いろいろやったよ。それこそ肉体労働とかさ。建物の解体とか側溝の整備とか。倉庫でも働いたなぁ。あと路上でカセットテープを売ったりしたな。町田だったかな。時給の良い仕事をいろいろやったね。テレアポなんかもしたなぁ。まぁ時給が良いって言っても800円くらいだけどね。 なるほど。 でも、何もしてない、プラプラしてる自分にコンプレックスもあったのね。それで大学3年の時にバイトで知り合った仲間と英会話スクールの運営を始めたんだ。教室は持たないで、喫茶店とかでやるやつ。今でもそういうのあるよね。まぁマッチングだよね。先生はワーホリで来てる外国人。 法人でやってたんですか? いや、法人にはしなかったんだ。儲からなくてね。冬の寒い中、チラシ配りとかして集客したんだけどね。集客は大変だったんだけど、当時としては先進的なパソコン通信を使って生徒の募集をしたりしたんだよ。 パソコンは持っていたんですね。 古いパソコンがあったんだよね。一緒に事業やってた仲間のお兄さんが当時パソコンのセールスの仕事をしててさ。そのパソコンなのか売れ残ったやつなのかわからないけど、とにかくパソコンがあったんだよ。 それっていつ頃ですか? うーん、85年、86年?それくらいじゃないかな。 相当早いですね。パソコン黎明期。そんな時代からパソコンに触れていたんですね。 そうだね、周りにはパソコンやってる人いなかったからね。でさ、ある時、その仲間と一緒にパソコン売ってた仲間のお兄さんのオフィスに遊びに行ったんだよ。30階くらいにオフィスがあってね。そりゃ憧れたよね。窓の外を見ると雲が流れてて、すごいなぁと。当時からそのお兄さんはラップトップパソコン使っててさ。カッコ良かったなぁ。

「コピーライターやりたい!」って言い続けた営業時代

そんなこんなで就職活動の時期になりますよね。その頃ってまだバブル時代だと思うのですが。 バブル後半かな。就職活動してなくさ。社会に出るのを拒んでたんだよね。でも周りは就職決まっていくし、だんだん追いつめられてきて、知り合いに紹介されて広告会社に就職することになったんだよ。銀座にある老舗の広告会社。広告のクリエイターになりたかったんだよ。コピーライターかな。 当時はコピーライター全盛時代だったような印象あります。 うん。広告業界が元気でさ、高度経済成長のピークを迎えてて、金も才能も広告業界に集まってた気がするんだ。そこに糸井重里という「象徴」がいてさ。長野にいた頃は「将来はミュージシャンか文化人になりたいなぁ」とか思ってたんだ。あの時代はそういう人が多かったと思うけど。「新人類」なんて言葉があってさ。糸井さんみたいな「文化人」が活躍してたんだよ。 音楽もやってたんですか? ちょっとね(笑)。一応ギターやったりしたんだけど、才能無かったよね。早くに見切りつけたよ。どっちかというと文章の方が得意だったね。だから就職の時も「コピーライターやりたい」って思ってたんだ。 なるほどー。 でもその就職した広告会社では最初営業だったんだよ。3年くらいやってたかな、営業。でもさ、ずっと周りに「コピーライターやりたい!」って言い続けてたんだよ。3年間言い続けてたら「そんなに言うならやってみるか?」ってなって、それでクリエイティブ部門に異動することができたんだよ。言い続ければ何とかなるもんだよね。でも言い続けてただけじゃなくて、勉強もずっとしてたんだけどね。宣伝会議のコピーライティング講座にもずっと通ってて、個人的にコンペにもコピーを応募してみたりして。それで何回か入賞もした。なんとか認めてもらいたくてできることは何でもしたんだ。言い続けただけじゃなく、行動もした。 言ってるだけじゃダメですよね。 うん。それでコピーライターやらせてもらうようになったんだけど、実際そんなに楽しい仕事ばかりじゃなかったよね(笑)。でも初めての事ばかりだし、勉強になって、面白かったよ。 なるほど。 念願叶ってやりたい仕事をやってたわけだけど、何て言うか、自分の個性というか、自分にしかできないことはなんだろう?って自問してた時期でもあるよね。そんな時に営業の人がマイクロソフトから広告案件を受注したの。まだ世の中はワープロの時代で、パソコンなんてみんなわからない。たまたま大学の時にパソコンに触れていたので、僕がそのチームに選ばれたんだけど、ソフトウェアの事なんてわからないし、雑誌読んだりセミナーに行ったりしながら勉強したのよ。そうしたらだんだん詳しくなっていって、他のソフトウェアの会社の案件なんかも担当するようになった。プロダクトごとに講習会があったりして、そこに参加して勉強してクリエイティブに反映していくんだよ。 広告を作るのにそんなに勉強しないといけないんですか? やっぱりそのソフトウェアの機能をわかってないと作れないよね。ポスターみたいなのからパンフレットまで作ってたから、詳しくないとダメだね。難しかったけど、相当知識はついたよ。

唯一将来性が輝いて見えたのがコンピュータの世界だった

やりたい仕事につけて充実してたと思うんですが、会社を辞めてしまうわけです。 だんだん世の中の景気が悪くなっていった頃で、どんどん広告予算も縮小していってさ。面白い仕事も減っていく中で「広告業界ってこの先どうなっていくんだろう」って考えていたんだけど、そんな中で唯一将来性が輝いて見えたのがコンピュータの世界だったんだよ。 なるほど。 悶々と悩んでる頃に、6年越しにさっき話した「友達のお兄さん」に会ったんだ。そのお兄さんは当時開発会社をやってたんだけど、たまたまマイクロソフトのマーケティング案件を受注しちゃって。会社自体は開発会社だったし、マーケティングわかる人がいなくて「広告に詳しくて且つパソコンにも詳しい」奴を探してたみたいなんだ。それで友達が「あいつがいいんじゃないか」と連絡くれて。それで会いに行ったんだ。そうだね、6年ぶりくらいに会ったのかな。その頃はそのお兄さんの開発会社は渋谷にあって、エンジニアが10人くらいいたんじゃないかな。 久しぶりに会ったわけですね。 そう。「お久しぶりです」みたいな感じ。そしたらそのお兄さんが未来を語るのよ。こんな悪い景気だからチャンスだとか言うんだよ。チャンスだから一緒にやろうって誘ってくるの。 それですぐに転職することになったんですか? いやいや、悩んだんだよー。結婚したばっかりだったしさ。でもやりたかったコピーライターの仕事も3年やったし、さっき言ったようにこのままの広告業界の未来がわからなかった。パソコンの世界には未来を感じてた。悩んだ末に転職することにしたんだ。 それがいつくらいですか? うーん、94年かな。まだウィンドウズ95も出てない頃だね。爆発的な人気と挫折を味わったリムネット時代。
転職して、例のマイクロソフトの案件をやり始めたんですかね。 うん。最初はその仕事をやった。でもアメリカでのインターネットの商用利用の拡大などをそのお兄さん、まぁ社長が見つけて、将来性をすごく感じたんだよ。これからはインターネットだから、みんなが使えるようにしていこう。インターネットを解放していこうって社長が言い出して。それでプロバイダを作ることになったんだよ。ISPってやつね。企画を考えてから4ヶ月で作った。東工大の学生を集めて作ったんだよ。その作ったプロバイダが『リムネット※1』なんだよね。 有名なリムネット! まぁ有名かわからないけど、ISP最初期のサービスの一つだったね。サービスは人気だったんだけど、まだサーバが1台数百万する時代でさ、お金が必要だったんだよ。初期投資だけで数千万くらいかかったかな。社長は主に資金調達に回ってて、僕は企画とかやって、学生がシステムを作る。そんな役回りだったかな。資金は会社でやってたこれまでの事業で稼いだお金と借入かな。 少人数で始まったんですね。 社長と僕とで企画やらサービス運営やら何やらやってて、いよいよ手が回らなくなってきたので社員募集をすることになったんだ。転職情報誌に募集を出したんだけど、最初に応募してきてくれたのが松本さん(現ファンコミュニケーションズ取締役副社長)なんだよ。 そうなんですね! 松本さんはアメリカ留学してたから、インターネットの凄さを知ってたんだと思う。それで応募してきてくれて、採用することにしたの。そこから一年間は僕と松本さんで全部やった。まさに怒濤の一年間だったなぁ。 リムネットは伸びていたんですか? 当時プロバイダ接続って1分100円くらいしてたのを、電話と同じ3分10円という価格設定にしたもんだから、人気爆発。もう設備が追いつかない。すごいユーザーから批判を受けながら設備を少しずつ増やして対応していくけど、いよいよ追いつかなくて、新規申込を中止したんだよ。半年くらいかなぁ。今思うとすごき機会損失だよね。クレーム受けながらもどうしようもなくて、時間はあったからその時に松本さんと本を書いてたよ(笑)。 『インターネットにお店を持つ方法※2』ですね。 そう。結構人気があって続編も書いたよ(笑)。 そんなこんなで運営してたんだけど、プロバイダ以外にもリムネットはいろんなサービスをやってて。レンタルサーバとかショッピングモールとか。レンサバなんか日本で一番早くサービス開始したんじゃないかな?ショッピングモールも楽天より早かった。そもそもリムネット自体がオンライン決済だったからね。画期的だったよね、当時の日本じゃ。リムネットの社長はすごく商才があったというか、センス良かったよなぁと思うよ。 凄いですよね。 あと当時は「テレホーダイ※3」の時代じゃない。夜はインターネットすごいんだけど、昼は回線がガラガラなの。そこで昼間はインターネット電話やるのが良いんじゃないかって。インターネット電話は結局売れなくてダメだったんだけど、どんどん新しいアイデアを試していったんだよ。プロバイダ事業で利益出てたからね。 そうなんですね。 それでいよいよIPOの準備をしてたんだけど、もうほんと申請の直前になっていろいろ資金計画が難しくなってさ。ハイパーネット※4は潰れちゃうし、CD-ROMかなんかの大きな会社も潰れて、いよいよ次はリムネットなんじゃないか?みたいな状況に追い込まれてしまい、結局アメリカの会社に売却することになった。アメリカはドットコムバブルだったからね。僕は会社売却前に取締役を辞任して会社から去ることになったんだ。 前にヤナティさんのブログに書かれていた記事でも少しこのあたりは触れられていましたね。なるほど。 そのリムネットを買ったアメリカの会社もバブルが弾けて潰れてしまったんだよね。激動の時代だったなぁ。 リムネットを辞められた後はどんなことをされていたんですか? 主にはライターをしてた。フリーライター。媒体から連載をもらったり、本を書いたり。子供もいたからプレッシャーあったなぁ。とにかく働かないとなって。一応少しだけリムネットで退職金が出たので、それを元手にアメリカのネット関連株に投資してたんだよ。それがバブルで30倍にもなってね。半分を売却したよ。 残りの半分は? バブルが弾けてゼロになった(笑)。


※1 1994年サービス開始の老舗ISP(インターネットサービスプロバイダ) ※2 1995年発売の書籍『インターネットにお店を持つ方法―今日からできるインターネットのビジネス活用』 ※3 深夜23時から翌朝8時まで、2つの電話番号への接続が定額で利用できるサービス。その時間は「テレホタイム」と言い、みんな23時になると一斉にインターネットを接続した。 ※4 90年代後半を代表するインターネットベンチャーであり、絶頂を極めるも97年末に倒産した会社。

柳澤安慶(やなぎさわ やすよし) 1964年生まれ。成城大学経済学部卒業後、広告代理店に勤務し営業・コピーライターに従事。その後のインターネット黎明期にサービスプロバイダーの立ち上げなどを経て、1999年10月 株式会社ファンコミュニケーションズを設立。創業から6年でJASDAQ市場に上場、2014年には東証一部上場を果たす。国内最大規模のネットワークを誇るインターネット広告企業。Twitterアカウントは若い起業家などからも人気。 ・Twitter:@ankeiy

インタビュー、テキスト、編集、写真:大柴貴紀(@takanori1976

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